1995年1月17日午前5時46分 阪神淡路大震災発生
あの日のことを思うと、、、
あの日、生後5か月を迎えようとしていたE子が4時過ぎにおっぱいを欲しがりぐずったので
おっぱいを含ませおむつを替え、ビデオデッキのタイマーをチラッと見ると4:44となっていたので何となく縁起の悪い数字だったのでそのまま寝るのをためらい真冬の明け方というのになぜか汗ばむ感じがしたので冷蔵庫のお茶を飲み、おトイレに行き重ねてきていたお布団を一枚E子の足もとに三つ折りにしておいてもう一度眠りにつきました。
そのすぐ後にうつぶせに寝ていた私はそう、ロデオマシーンにでも乗せられて体が振り回されている夢を見ているのかと勘違いするほどの揺れに我に帰り、横に寝ているE子の上に覆いかぶさりました。
その時ダーリンは足もとにあった婚礼ダンスを必死で倒れないように押さえていました。
つい、一週間前までE子の寝ている頭の前にテレビをダーリンの枕元に婚礼ダンスを置いていたのですが、その頃川西の方で繰り返す地震をダーリンが気にかけ一人でタンステレビを配置換えしていたので難を逃れました。
すぐに実家に電話をいれると真っ暗な中手探りでボタンを押したので間違い電話をかけてしまいました。
「 すみません間違えました 」 「 お互い無事で何よりでしたね、大変なことになりましたがお互い生き抜きましょうね 」 と梅本さんとおっしゃる年配の女性に励まされたことを思い出します。
前日までの連休に買いだしていた多くの食材はすべて冷蔵庫から飛び出し前日のおでんはお鍋から飛び出し床はベトベト、食器棚は倒れ結婚するまでにコツコツためていた高価な食器は無残にも粉々に、、、人間って不思議こんな悲惨な状態なのにいやに冷静に物を見ている自分がいて
ダーリンに手を引かれE子をおんぶして外へ
まだ外は真っ暗でまえが見えない。そう、停電してるからまっくらなんですね、ダーリンが 「 危ない!! 」と 前を見ると電柱が倒れ電線が前を塞ぎ 昨日まで普通に並んでいたお家が潰れてしまって何が何だかもう、ダーリンに全てを託すしかない。
近くの学校の体育館へ着くと誰もいない、何分かすると鍵を開けて入れてもらい赤ちゃんがいるということでマットをお借りししばらく待機していたのですが、ダーリンが駐車場に車を通りに行き、南へ10分ほどの所に住む姉の家へ向かってくれました。
姉の家もタンスは倒れ悲惨な状態、タンスの下のガラスまみれの布団はもぬけのから
鍵の空いたままの家には誰もいない。すると姉の家から南へ5分ほどの実家へ姉家族は向かっていたのでした。
姉のマンションの下でみんなの無事を確認し、母の妹が一人でいたのを心配した父が叔母を連れて避難所へやって来ました。
その後塩屋の父母と連絡が取れたのですがダーリンの生まれ育った家は全壊。塩じいの船も多くが破損。その後破損を免れた船は保管することの出来ない神戸を離れ遠く室蘭の白鳥大橋博物館に寄贈することとなりました。
なにはともあれ塩じいも塩ばあも無事だったのでひと安心。。。
私たちは避難所で3日間ばあば、姉家族、親戚とともに過ごしましたが、インフルエンザが蔓延し、小さなE子を心配したみんなに滋賀にいるダーリンのお姉さん宅に避難する様に即されたのですが皆と離れることが身を切られる思いで拒否していた私に姉が
「 私たちもばあばと一緒に兄ちゃん(姉の旦那さん)の実家に今から行くからヨピたちは連れていけないから滋賀にお世話になりなさい 」 と言われ泣く泣く私たちが先に出発することになったのです。甲子園口の駅まで兄ちゃんが送ってくれたのですがその時、兄ちゃんが
「ジェームス、ヨピとE子を頼むで 」 と言ってくれた姿に泣きながら電車に乗ったことも忘れられません。
後になってわかったのですが、離れることを嫌がる私を納得させるために兄ちゃんの実家に行くというウソを皆でついたそうです。その後も私たち以外は避難所に残ったそうです。
滋賀へ向かう電車の中、尼崎を過ぎたあたりで気づきました悲惨なのは私たちだけ、みんな通勤に向かうスーツ姿の人たち
席を譲ってくれることもなく何もないかのように新聞を読んでいる人たち、、、忘れません。
そして滋賀につきダーリンのお姉さんが作ってくれた温かいカレー、久しぶりに磨いた歯歯茎がボロボロになっちゃった。
ダーリン電車の中からグッタリなってたと思ったらインフルエンザにかかり、子供のいるお姉さんのところでは迷惑がかかるということでダーリンのおばさまのいる高槻へ
本当に優しいおばさまで毎日毎日御馳走を用意してくださって、熱を出したE子を連れて病院にも連れて行って下さり、おむつ替え等も何もかもしてくださいました。
報道番組を見てショックでおっぱいが出なくなってはいけないってテレビは一切見せてもらえず、気になりましたが後になり見なくて良かったとおばさまの思いやりに感謝の念でいっぱいです。
ダーリンと二人して20時間くらい爆睡しました。
E子はおばさまのお宅で初めての寝返りをしました。
その後、仕事に復帰するダーリンだけ西宮に帰ることになりましたが家族が離れるのは絶対嫌なので一緒に戻ることに
そして、しばらくはバアバの家で雑魚寝、ダーリンは今津港から船で神戸中突堤まで通勤していました。電車は脱線したままなので代替バス等、大変な思いで仕事に行っていたようです。
今は大きくなりましたが当時、3年生と1年生と幼稚園前の姉の所の子供たちは遊ぶところもなくおやつもない我慢ばかりの生活の中、E子を思いやってくれ本当にあの当時の子供たちはその後も公園はすべて仮設住宅になっていたのでかわいそうでしたが、今あの子たちは大きくなり絶対日本を変えてくれると頼もしい大人になっていると思います。
その後、塩ばあの妹さんの所有するマンションに塩じい塩ばあとともに共同生活をすることになりました。
初節句を家で迎えたいと無理やりガスも出ない我が家へ戻りやっと3人の生活を再開しました。
震災で、大切な大切な友だちのお母さんが亡くなり、地震の起きる2日前にE子の写真入りのカレンダーをわざわざ家に持ってきてくれたのにその時、留守にしていて会えずにおばちゃん亡くなっちゃった。
ご冥福を祈らずにはおれません。
おばちゃんには、今ね頼もしい男の子の孫が三人もいるんだよ。
あの時の、私たちは生死を紙一重で分け合ったのです。
生かされた私たちは命を大切にどんな辛いことがあっても生きて行かなければいけないと思います。亡くなった方の分も
そして震災の体験を忘れてはいけないと思い今日、ヨピログに長々載せさせていただきました。
押しつけがましいかわかりませんが生かされている命精一杯生きましょう。
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